サティアグラハ

作曲:フィリップ・グラス
歌詞:コンスタンス・ディヤングによる『バガヴァッド・ギーター』の脚色。
台本:フィリップ・グラス、コンスタンス・ドゥジョング
初演:1980年9月5日、ロッテルダム、市立劇場
[*訳注:サティアグラハは、インドのガンディーが提唱した非暴力と不服従による反英独立抵抗闘争。ヒンディー語で「真理の把握」を意味する。]

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第一幕 トルストイ
第一場 クル族の正義の戦場
クル族とパーンドゥ族の二つの王家の間で大戦争が始まろうとしていた。老王の合図とともに、ほら貝が鳴り響き、聖なる戦場に待機していた軍勢が気勢を上げる。両陣営の兵士や首長たちが盛んに角笛を吹き合って戦闘意欲の高さを示す。耳を聾する音が天地に鳴り響いた。剣が鞘から抜かれ、弓が引き絞られ、今にも戦いが始まろうとしている。パーンドゥ族の王子アルジュナは、血気にはやる男たちを見ながら師クリシュナに話しかけた。アルジュナは今から自分が戦わなければならない相手をしっかりと見定めたかった。

第二場 トルストイ農場(1910年)
ガンディーは、ヨーロッパの人種差別に抵抗する誓いを立てた一握りのサティヤーグラヒ(サティアグラハを実践する人々)の協力を得て、南アフリカのインド人移民と共に、初めての集団行動を起こした。その闘争がどれくらい続くのか、誰にも見当がつかなかったが、トルストイ農場のおかげで、彼らはさしあたっての目標を達成しつつあった。そこではすべての家族が一か所に住み、共同体の一員となる。そして簡素な新しい生き方を学び、互いに仲良く暮らす。大工仕事から料理や清掃のすべてが、自らの手で行われる。農場の建設を通して、「主に自己浄化と自立の中に存在する真実のために戦う」というサティアグラハの理念を、一人ひとりが積極的に実践するようになった。

第三場 誓い(1906年)
英国政府は、大人から子供まで男女を問わず、インド人全員に対し、再度の移民登録と指紋採取を義務づけるよう法律を修正しようとしていた。そうなれば、インド人は常に居住許可証を携帯することを求められ、警察はいつでもインド人の住居へ立ち入って証明書の検査を行うことができるようになり、違反者には罰金や投獄、強制送還が課されることになる。ブラック法案の提出は、具体的な問題をめぐって大きな集会が開かれるきっかけを作った。3,000人以上の人々が集まった公開の集会においては、全員が死ぬまでこの法案に抵抗するという決議文が採択された。にわかにサティアグラハ運動に転換点が訪れていた。生命を賭した決議文は、人々に普段の多数決による承認以上の行動を求めた。一人ひとりの誓いが持つ責任の重みを語る演説者たちの言葉に、集会の参加者全員が耳を傾けた。神の名において誓われた事のみが、個人個人がどのような困難に直面した時にも屈しない気持ちを支えてくれるのだ——たとえ自分が最後の一人になった時でも。

第二幕 タゴール
第一場 対決と救助(1896年)
インドに滞在した6カ月の間に、ガンディーは南アフリカにおけるインド人移民の現状を母国の人々に伝えた。彼のスピーチや集会については、ロイター通信が南アフリカの新聞に流し、いくぶん誇張されたニュース報道によって、数千人に上るヨーロッパ人の知るところとなっていた。だからガンディーが再び南アフリカのダーバン港に降り立った時には、激しい感情の爆発が起きた。そもそもガンディーにさまざまな事を世界中に暴露されて腹を立てていたヨーロッパ人らは、今回、彼が数百人単位のインド人移民を連れて来ようとしていることを知って、さらに怒りを増幅させた。もしも政府が彼らの上陸を阻止しないなら、リンチするまでだ——興奮したヨーロッパ人の群衆は数を増し、次第に暴力的になって、市中を歩くガンディーの後を長時間にわたって追い回した。反対の方向から来た警視の妻ミセス・アレクサンダーが、傘を差しかけてガンディーを守り、一緒に歩きながら安全な場所へ導いた。

第二場 『インディアン・オピニオン』紙(1906年)
抵抗運動の核となったのは、『インディアン・オピニオン』という週刊新聞だった。製作のあらゆる面が闘争の観点から検討され、その内容にはサティアグラハ理念の成長が少しずつ反映されていった。一切の広告を拒否する方針を取ることで、外部からの圧力を排除することはできたが、収入源を読者の購読料に頼ることとなるため、その存続はひとえに、新聞を作る人々と読者との相互責任にかかっていた。同紙は、運動の弱点を克服するために、敢えて紙上で問題の原因究明を行った。それによって情報が敵に流れることにもなったが、真の強さを追及するほうが重要だと考えたからだ。厳しい内規を設けることで、国内外に向けた効果的な情報発信に成功し、その結果、同紙は闘争における有力な武器となることができた。ピーク時の購読者数は、南アフリカ国内だけでも2万人と推定されている。 

第三場 抗議(1908年)
抵抗運動のリーダーたちが、南アフリカからの退去命令に背いたとして投獄された。処分の事由は「法の定めに従って所持しているべき登録証明書を行政官に提示しなかったため」とされた。そこでインド人はさまざまな違反行為を犯すことによってわざと逮捕されるように仕向け、刑務所を満杯にして政府を困らせようと考えた。その週末までに逮捕者は150人に上った。そこで政府は、「もしインド人移民が自主的に登録を行なえば、政府はブラック法案を撤回する」という和解案を提示した。しかしインド人が約束を果たしても、政府は法案をそのまま通そうとした。驚いたサティヤーグラヒたちは、闘争の再開を辞さない構えで、「法案を撤回しないなら、登録証はインド人の手で集めて燃やす。その結果は甘んじて受ける」という最後通牒を政府に突きつけた。回答期限の最終日、集会を開いて祈りを捧げるガンディーの元へ、政府から「撤回拒否」の返事が届いた。登録証が次々と大釜に投げ込まれ、炎に包まれた。人々は立ち上がって快哉を叫んだ。その日響き渡った歓声は、運動が始まった時の声よりも大きかった——サティアグラハが炎の洗礼を受けた瞬間だった。

第三幕 キング
ニューキャッスルの大行進(1913年)
あからさまに人種差別的な2つの法律を実施することによって、英国政府は効果的に新たなインド人移民の流入をコントロールしつつ、以前からいる年季契約労働者たちを抑え込んでいた。移住申請者は、教育試験に合格しても「カラー・バー(皮膚の色による差別)」によって制限を受けたし、7年間の年季契約を越えて滞在することを選択した者には特別税——同一世帯内の各人が、1年間に給与の6か月分に相当する額を納めること——が課せられた。しかも「3ポンド課税」や「アジア人移民法」は、偉大なるインド人指導者のゴーカレーが南アフリカを訪ねて、政府から撤回の公約を取りつけても実施され続けた。政府による約束の不履行は、真実の希求を旗印とするサティアグラハ運動に新たな目標を加える機会を与え、さらに賛同者の数を増やす契機ともなった。広がり続ける闘争に真っ先に引き込まれたのが、ニューキャッスル鉱山の炭坑労働者たちだった。サティアグラハの女性代表団が現地に入って、運動に賛同の意を示すストライキを組織した。さらにその後、労働者とその家族たちは衣類と毛布だけを持って、鉱山所有者が提供した住宅を出て、サティアグラハの大群衆に合流することになった。労働者たちは、自分たちの食糧にも気を配ってくれるガンディーを先頭に、トランスヴァールの国境まで58キロに及ぶ道程を行進した。もしこの検問所で逮捕されれば、5,000人の集団が刑務所に押し寄せることとなり、政府に莫大な経費と困難が生じることになる。一方、大行進がトルストイ農場まで進むことを当局が許せば、ストは長引き、重税にあえぐ6万人の労働者がこの闘争に加わる可能性も出てくる。どちらにせよ、彼らはサティアグラハ理念の範囲内で、法の撤回に対して強い圧力をかけることに成功した。このようにして人々は、抵抗することなく、いかなる試練にも耐え抜く術を身につけた。そして自分たちの行動は「首相の公約違反に対する有効な抗議方法であり、自尊心を踏みにじられた我々の深い悲しみを純粋に表現するものである」として、運動の内容を包み隠さず英国政府に知らせた。